俳句とみる夢

笠原小百合の俳句な日々。

もっと自由に

何をしてもしんどい夜です。
体中がぴりぴりと張り詰めている感覚。
眠ってしまえれば良いのだけれど、それはなかなか難しい。
例えば泣いてみるのはどうだろうかと思うのだけれど、それもなかなか難しい。
どうにもこうにもいかなくて、ここからどうしても動けなくて。
心情吐露をして少し気持ちを落ち着かせようかなと思っているところ。

こういう時は俳句ではなく、小説を書きたくなる。
虚構の物語を紡ぐことで、何かを掴もうとする。
掴めるような気がしてくる。
本当は「詩」という形にした方が適しているのかも、と最近は思う。

今年は色々なジャンルの創作に触れたい。
枠を自分で勝手に設けない。
というのを目標に、もっと自由にやっていきたいです。

 

<句会カウンター2024>2/19現在

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T/L 35

あしたの準備をする日

明日は第3回競馬夜咄を開催します。
ご予約少なめですが、その分ゆっくりじっくりお話出来るかと。
準備はもう少し掛かりそうですが、明日も楽しい馬トークを繰り広げる予定です。
とても楽しみです。

一昨日は池袋で開催中のコナン展へ。
昨日は筑波山に登ってきました。
何処かへ誰かと一緒に行けるという幸せを感じています。

猫氏が亡くなって、悲しい悲しいとSNS等で発信していました。
悲しいのは事実で、正直まだまだ悲しいです。
それでも前を向くべきで、それは自分のためでも猫氏のためでもあって。
そういう時に声を掛けてくれる人がいるということを、とても有り難く感じます。
みんなね、優しいです。
こんなに受け取ってしまって、返せるものがわたしにあるのだろうかと不安になるけれど、優しいみんなはきっとわたしが何も返せなくても、ちっとも不満に思わないのかもしれないですね。
どうして嬉しいと泣けてくるのか、不思議です。

 

<句会カウンター2024>2/15現在

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BUMP OF CHICKENのアカシアに救われている話

土曜は猫氏ことじゃすの葬儀を執り行いました。
簡単なお別れの儀式と火葬。
わたしたちがじゃすにしてあげられること。
それは、わたしたちの心を癒やすために必要なことでもあります。

というか、人間なんてエゴの生き物だと思うのです。
なんでも結局は、最終的には自分のため。
だからこそ、わたしは人間が愛おしい。
自分の中のエゴを確認して、ああわたしも人間だ、と少し安堵するのです。
そういう、愛しくも悲しい生き物なのです。

じゃすと会えなくなってから、BUMP OF CHICKENの楽曲をよく聴いています。
バンプは昔から大好きなバンドで元々聴いていました。
弱っているとき、つらいとき、頑張りたいとき、やさしくなりたいとき。
そういうときに聴く音楽、聴きたいと欲する音楽。
それはわたしにとって、BUMP OF CHICKENとCIVILIANなのかもしれません。

今は特に「アカシア」という曲を聴いています。
この曲はポケモンをモチーフに作られた楽曲なのですが、つい猫氏に当てはめて歌詞を聴いてしまっています。

君の一歩は 僕より遠い 間違いなく君の凄いところ
足跡は 僕の方が多い 間違いなく僕の凄いところ

ポケモン視点の歌詞だと解釈しています。
ポケモンが、パートナーである人間を思う歌。
そのポケモンをじゃすに置き換えて考えるのは、まあなんともエゴ中のエゴという感じなのですが。
なんともわたしにとって都合の良い解釈。
でも、そう思い込むことで救われることもあるというのも事実。
じゃすもこう思っていたかな、思ってくれていたらいいな、と。
そう思って曲を聴くと、涙が止まらなくなるのです。

どんな最後が待っていようと もう離せない手を繋いだよ
隣で(隣で) 君の側で 魂がここがいいと叫ぶ
そして理由が光る時 僕らを理由が抱きしめる時
誰より(近くで) 特等席で 僕の見た君を君に伝えたい

君がいることを 君に伝えたい

じゃすからわたしへ。
わたしからじゃすへ。
じゃすは間違いなくわたしのパートナーでした。
大切な家族でした。
それは今もこれからも決して変わらないです。

 

<句会カウンター2024>2/12現在

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柴崎友香『続きと始まり』を読みました

猫氏のこともあり眠れなかったので、小説を読みました。
柴崎友香さんの『続きと始まり』(集英社)という長編小説です。

 

www.shueisha.co.jp

 

全く別々の場所に暮らす3人の日常を描いた物語。
3人は知り合いでも何でもないのだけれど確かに同じ世界を生きていて、一瞬のような出来事でも数多の人生が交錯しているのだと思うと、世界が愛しくなるような気がした。
一方、地震や戦争などをはじめ、地続きのはずの世界が遠く切り離されて感じられたり、どうしようもない無力感を突きつけられたりもするのも事実だ。
結局それらとのバランスをうまく取りながら自分の日常を送ることしか出来ないという、やるせなさ。

 

全部に真面目に向き合っていると自分が狂いそうになる。
だからと言って、見て見ぬふりをして良いのか。
常に自問自答をするけれど、自分の小さな平和を守ることに精一杯で、そこから先に進めない。
そんな状態はぎりぎりと削り取られるようにダメージを負い続けるようなもので、表向きは平気な顔をしていても心はどんどん摩耗していく。
でもそれを「弱い」の一言で片付けてしまいたくはない。
決して強くなんかはないのだけれど、普通っていう言葉も好きじゃないし、みんな同じだよねなんて慰めの言葉はもっと要らない。
こういう一言では上手く言えない思いを伝えるために、小説は存在していると私は思っている。

 

だから、感想を上手に言おうだなんて思わない方がきっと良い。
小説を読んで、感じて、膨らんでいく思いを残していけばきっと良い。
そこから色々な広がりも見えてくるのだと思う。
わたしは書評家ではないので、これからも自分の心を探りながら読書感想文を綴るのだろう。

 

話が逸れてしまった。
つまり、久々に長編小説を読み切って、それがとても私にとってよい物語だったことが嬉しくて、余計に眠れない夜になってしまったというお話。
不思議な時空に放り出されるような読後感は浮遊感にも似ていて、自分の上下左右がすこしわからなくなるような軽い混乱。
これは、よい読書体験の後によくあるやつ。
柴崎友香さんの作品では『きょうのできごと』が一番好きだけれど、それに似た空気もありながらまた違った立ち位置の作品として機能しているのがこの『続きと始まり』なのだろう。

 

やっぱり好きだ、と思う。
好きな作家がいるというのは幸せなことだなと思う。
大切な夜に読み終えることが出来てよかったと心からそう思う。

 

 

<句会カウンター2024>2/9現在

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T/L 28

じゃすとのお別れを詠むこと

愛猫じゃす(本名ジャスタウェイ)が永眠しました。

およその年齢で11歳。

最初に乳腺腫瘍を発症してから3年も生きてくれました。

最後は病との闘いでしたが、懸命に生き抜いてくれたじゃす。

ありがとう、お疲れさま、と。

ずっとずっと大好きだよ、と。

もう少しの間、身体を撫でながら伝えてあげたいです。

 

死の間際のじゃすの俳句をたくさん詠みました。

それは、とても完成されたものではなく、どちらかと言えば稚拙な句だと思います。

でも、詠まずにはいられなかった。

詠むことで、自分の気持ちを落ち着かせていたというのもあるし、

じゃすの存在を少しでも自分に引き寄せて感じていたい、というのもありました。

たくさん、たくさん詠んで。

でも、もっともっと詠んであげたかった。

それは、わたしに出来る最大限の愛情表現だったのかもしれません。

発表して評価されることだけが俳句の価値ではないと、改めて思いました。

じゃすは亡くなってしまったけれど、これからもじゃすの句を詠みたいです。

じゃすのことを思う気持は、これからも変わらないです。

 

 

じゃすの遺体は土曜日に火葬になります。

それまでたくさん撫でてあげて、ありがとう、大好きだよと伝えてあげたいです。

 

笠原小百合 記

立春大吉

今日は立春

そして、夫の誕生日です。

先程ケーキを食べ終えました。夕飯はお寿司を食べます。

 

今朝の俳人協会若手部早朝句会で、猫氏が死んでしまったかのような句を出してしまいましたが、まだ生きています。

最期も穏やかであれば良いな、という妄想でした。

もしくは、願い、とでも言うか。

 

春が来て、春らしさを探し始めました。

春らしさを見つけて春を感じるより、時候に振り回されているこの感じ。

なんだか面白いなあと、自分のことながら興味深く思っています。

実感が大事、なんて言いながら、やっぱりルールの支配下に居るのか?

面白いので、もう少し自由にさせて観察してみたいと思います。

 

 

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T/L 26

俳句総合誌の特集との向き合い方

角川俳句2月号の大特集「省略」を読んだ。

 

「切れ」とか「写生」とか「省略」とか。

この手の内容は繰り返し特集されており、句歴が長くなってくるにつれて「ああ、またか」と思ってしまうこともあるだろう。

しかし、だからと言って全く読まないというのは勿体ないと私は思う。

自分はわかっていると思っていることであっても、改めて他者の解説を読むことで、また違った感覚を掴めることがある。

大きな新しい発見は、正直なところ、ないかもしれない。

けれど、小さな気づきは得られるはずだ。

自分と同じようなことを考えている俳人がいて、この人はこんな言葉で考え、表現するのか、と。

特集内容をこのような切り口で語ると、こういう意見が出てくるのか、と。

その小さな気づきの積み重ねを大切にしていきたいと個人的には思っている。

 

ある種の確認作業に近いかもしれない。

地味で、実に気の遠くなるような作業かもしれない。

しかし、誰もが驚くような大発見が、長い歴史を持つ俳句という文学の中で今後登場するとはあまり思えない。

「小さな発見」

「少しの見方のずらし方」

俳句とは、そのようなことこそが大切な文芸なのではないかなと思うのだ。

 

些末なこと、と打ち捨てずに、忍耐強く向き合っていく。

その先に、開けて見えてくる景色があるはずだと、信じている。

今後の評論執筆に向けての自分への文章として、この記事を残す。

 

追記。

結社のブログにもちょこっと意見を書いてみた。

ご興味ある方はこちらからどうぞ。

ameblo.jp

 

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T/L 23

 

小百合 記