若手と呼ばれる俳人が評されるとき、その句の瑞々しさに注目されることが多い。「若くてフレッシュな句」がその俳人の年齢という情報から余計に強く印象に残るというのもあるだろう。第一句集『夜景の奥』をご上梓された浅川芳直さんも所謂若手と呼ばれる括りの俳人で、『夜景の奥』が瑞々しい句群から成ることは間違いないだろう。
自転車を降りる呼吸や祭なか
雨あがるひかり氷菓の封を切る
改札を別れ梅雨入り前の星
息切れのあと雄弁にグラジオラス
手袋に切符一人に戻りたる
晩秋のくちびる渇ききる目覚め
風信子明日の雨にしづみさう
人白くほたるの森へ溶けきれず
しかし、瑞々しさだけではない。句群は浮ついたところがなく、どっしりと落ち着いている。安心感や安定感と言ってもよいだろう。その一見両立が難しそうにも思える「瑞々しさ」と「安定感」の同居こそが芳直俳句の魅力だと筆者は考える。
満開のさくらを背なに地下へ入る
缶チューハイ一本を守る砂日傘
論文へ註ひとつ足す夏の暁
うす雲の中に浮く雲不死男の忌
一本は海に吼えたる黄水仙
にんじんの皮のはらりと敗戦日
夜の靄を動かしてゐる百合の群
雑煮椀どかと座したる遺影かな
一苑の枯を進むる日のぬくみ
作者は俳句と長らく生活を共にしてきた。はじめて俳句を詠んだのは幼稚園年中時の五歳のときだという。しかし一緒に過ごす時間が長ければ良いというのものでもない、というのが俳句である。作者は長い時間をかけて俳句と友好的な関係を築いてきたのだろう。俳句がただ型を身につけて俳句らしい俳句を作ることを良しとする文芸であれば、時間をかければある程度の人間はそのレベルに到達できる。しかしそうではないのだ。作者は俳句と二人三脚で歩みを進めつつ、自分の表現というものを今も追求している。そんな作者と俳句との信頼関係を感じることの出来る『夜景の奥』は、俳人・浅川芳直の辿ってきた道を示した地図のようにも感じる。そしてこれからは地図を新しく描き足していくのだろう。浅川さんには最終目的地が見えているのだろうか。自身の地図を手に歩んでいく浅川さんのこれからを句友として見守れることは非常に光栄である。
最後に、筆者が吟行を共にした際の句を引用したい。
甚句平らか夏雲の平らかに
武者振ひ落としし馬の冷やさるる
前書きに「野馬追 雲雀ヶ原二句」とある。福島の相馬野馬追の吟行は、とにかく暑さとの戦いだった。暑さで頭も上手く働かない中、浅川さんはこれだけ鮮明に景を捉えていたということに驚いたのを覚えている。筆者が野馬追に誘っていなかったらこの二句は詠まれることはなかったと思うと、少し誇らしい気持になる。浅川さん、野馬追の句を句集に収めて下さり、ありがとうございました。
笠原小百合 記