俳句とみる夢

笠原小百合の俳句な日々。

【小説】崖を探しに行く前に

 ミーディは言った。

「崖から自分を突き落とすためには、自分も一緒に落ちなければいけないから。それで、這い上がってきた自分だけ生き残っても、抱きしめてくれる自分はもう居ないって? そんな阿呆らしいことやってられないね」

 切り裂かれるような寒さの夜に、緊急車両のサイレンが鳴り響く。ミーディはお構いなしに、キッチンに立って何やら手を動かし続けている。それが私のための料理であることはなんとなくわかっていたが、頼んだ覚えもないのにどうして? 私は料理をして欲しいとも、何か食べたいとも、一言も言っていないのに。

「そもそも崖って、どこにあるのさ。断崖絶壁ってやつ。観光地でしか見たことないけど、そんなところで飛び降りたら大騒ぎで、這い上がってくる前に誰かに助けられて終わっちゃうよね」

 ケラケラと嬉しそうに明るい声で笑うミーディは、コンロの炎を見つめた。と思う。私の方からは何も見えない。ミーディの上半身がテキパキと動いているのが見えるだけ。それでも、ミーディの目に炎の揺らぎが映っているような気がして。だから、ミーディがコンロの炎を見つめた、というのは私の全くの想像であり、もしかしたら妄想かもしれない。

 料理をしてくれている、というのも実際のところはわからない。本当にミーディは料理をしているのか。私のために作ってくれているのか。状況からそうなんとなく判断しただけであって、はっきりと確認したわけではないのだ。私の全くの想像であり、すべては妄想かもしれない。

 妄想として、すべてを終わらせてしまいたい。となると、私は崖の上にに立たなければならない。

「……どこへ行くの」

 音もなく立ち上がった私に、ミーディの声が静かに降り注ぐ。私はミーディの顔を見ることが出来ずに、黙って下を向き、両手をきゅっと軽く握った。

「もうじき夕飯だから。一緒に食べよう」

 ミーディは、たしかにそう言った。少し呆れたような、優しい、穏やかな声だった。反芻、そして、反芻。何度もミーディの声を脳内で繰り返す。すると、私の肩がふっと軽くなり、体内に縮こまっていたものたちが解放されていった。悪魔みたいな顔をした出来損ないの感情たちは、きっとみんな妄想だったのだ。あいつらがまた私の体内に戻ってくる前に、ミーディの作ってくれた夕飯をミーディと一緒に食べなければ。夕飯はきっと、ビーフシチューだ。私の、大好物の。