「自分を見つめて、17音。~俳句甲子園2023~」を視聴。
Eテレで再放送されることに気づき、録画した。
俳句甲子園は好きで応援していて、俳句をはじめてから毎年楽しみにしている。
高校生という時間の中で生まれる俳句。
そこにとても興味があるのは、自分はずっと後になってから俳句をはじめたからかもしれない。
もし高校時代に俳句と出会っていたら。
あの頃のわたしは、もう少しくらいは笑えていたのだろうか。
そんな仕方のないたらればを思ってしまうくらい、俳句甲子園はわたしには眩しく見える。
今回の番組の中で、名古屋高等学校の幸村遥都さんのお話が心に響いた。
特に彼が口にした「勝てる俳句」「勝てない俳句」のこと。
それはまさに最近、わたし自身も感じていることだった。
句会で点が入る句、人気の集まる句を無意識のうちに狙って作ってはいないだろうか。
いや、作れるのならばそれは良いのかもしれない。
そしてそれが自分で納得のできる句であるのであれば、全く問題はない。
ただ、自分に嘘を吐く、あるいはそこまでいかなくとも、違和感を抱えている状態で作句をしてはいないだろうか。
先日、ここ最近は言葉が手足のように馴染んできた、と書いた。
その感覚はとても大切で、大事にしていきたいと思っている。
けれど、少しだけ感覚が行き過ぎてしまったようで、再び思うように言葉が出てこなくなってしまった。
多分その理由は、「勝てる俳句」を意識してしまっているからのように思う。
そしてそれに気づけたのは、句会に参加しているから。
他者の視線を真っ向から受けることで、己の姿を改めて確認する。
それは結構きついことでもあるのだけれど、とても大事なことだと個人的には思う。
もっと自分本位で詠んでもいいのだ。
ただ、独りよがりにはならないように。
その塩梅が難しいのだけれども。
自分の詠みたい句を詠めば良い。
そんな当たり前のことをどうしてすぐに忘れてしまうのだろう。
今日、一人の高校生の言葉に改めて気付かされた。
彼にありがとう、と伝えたい。
しかし伝える術もないので、こうしてブログに書いているというわけだ。
俳句甲子園を見ていると、一人ひとりが俳句と向き合っているのを感じる。
決して、失ってしまった青春性を懐かしんだり羨んだりしているわけではない。
純粋に、同じ俳句を愛する者として楽しませてもらっているし、勉強させてもらっている。
俳句甲子園をこれからも応援していきたい。
いつかは松山へ、観戦に行ってみたい。
そんな願望も書き留めておけば、そのうち実現に向けて動けるかもしれない。
案外今年の夏は、松山で汗を流していたりして。
小百合 記